三歩進んで二歩進む!

倍プッシュや!

我々はプチのきな粉味で永遠に繋がっている

 

去年の年末はマジでやばかった。マジでやばいというセンテンスはこの時のために発案されたのかというほど私の生活はマジでやばく、主に仕事の残業量がクフ王朝の奴隷にも匹敵するかというほどの酷使に続く酷使でまだ人権宣言がなされていない世界線にトリップしたのかと思われたほどだった。

 

 

朝起きて出社するとデスクワークとは名ばかり、地下1階から地上7階までオフィス中を節電のため階段のみを使って駆け回り、他課にも遠慮せずスライディングで割り込み上席にオーバーヘッドキックで書類を炸裂するさまは、まさに調子が良いときのケルンFW大迫勇也。自分のデスクには常に3台のPCが設置され、薄暗いオフィス内にモニターが煌々としている前で猫背気味にひたすらマウスをクリックする自分の姿は不気味を通り越してLだった。何が何だかわからない。

 


マウスを握る手は震え、目は血走り、独り言を呟きながら食事も摂らずに夜中まで作業をし続ける。そうこうしているうちに、夜の9時を過ぎたあたりで突然哲学的な問題が頭を占領し始める。「生きるとは?睡眠・食事・交友関係を削り、あらゆる人生の楽しみを犠牲にしながら、ここまでして生きる意味はあるのか?」有史以来人類の中でも特に面倒臭いタイプの人類がしきりに論争を繰り返してきたひとつの命題に対し、圧倒的な節電のため氷のように冷え切った建物内で解答を試みているうちに時間が過ぎていく。

 


いつのまにか懐中電灯を持って見まわりにきた警備員が「え、まだ帰らないの?マジで?」という表情で通り過ぎていく。もう我々に残された道は、山と積まれた書類に灯油をぶっかけてダイナマイトを括り付け、神妙な面持ちで火をつけたマッチを指で弾きとばし、唇の片方を小さく持ち上げ最後に一言「あばよ・・・」など言い残して建造物ごと爆発するしかないんじゃないかという陰惨な気持ちになってくる。

 


そんな毎日を繰り返しているうちに、事態は次第に収束に向かい、我々は長い従軍生活を経てようやく帰還した歩兵のようなやつれた面持ちで、出勤と退勤をただ無心に繰り返す人型アンドロイドのようになっていた。

 


感情を失ってしまったはずのアンドロイドたち。しかし彼らの瞳の奥にわずかに残った灯火のような小さな光。吹けば消えてしまいそうなその光は、時間をかけてだんだんと明度を増し大きくなっていく。その光の意味するものはいったい何なのか。彼らがやっとその正体に気づいた頃、「それ」ははっきりとした実体をもって彼らの心を暴力的なまでの強さで支配するようになった。

 

 


恨み。憎悪。圧倒的な憎しみ。人間を、あるいはコミュニティを、そのシステムを、心の底から忌み嫌い、怨み続けてやるという固い決意。ながらくの間、我々を奴隷のように酷使し、虐げ、侮辱し、人権を侵害してきた鬼畜生どもに怒りの鉄槌をくだすときがやってきた。死後大悪魔サタンの業火に身を焼かれ地獄にて永遠の苦しみに悶えるがよい。

 

 


それからというもの私はまさに鬼の形相で仕事を片付け、強盗なのだろうか?という勢いで片っ端からタスクをぶちのめしていく。気分はまるで時速300キロをもってアウトバーンを疾走する調子に乗ったドイツ人ユーチューバー。ははっ。おいコイツの走りを見てくれよ。時空が歪んでやがるぜ?チャンネル登録はこちら。

 

 


しかしその抜群の馬力とテクノロジーをもってして築きあげた最強の配信も長くは続かなかった。突然糸が切れたように動かなくなったドイツ人ユーチューバー。彼の身にいったいなにが。CMのあと、その衝撃の事実が明らかになるわけでもなく、私は一人混乱と無力感の中に取り残されてしまった。

 

 


仕事に行けるわけでもなく、家事ができるわけでもない。何ができるわけでもないのになぜか息だけはしている。いったいこの状態はなんなのか。子どもの頃からできないことだけは人一倍多かったが、まさかここまでマジで何もできなくなるとは思わなかった。組体操ができないのは許されるとしても、いい年をした大人が仕事もせず家事もせず何もせずただひたすら「人 嫌い」「人 怖い」「生きる 無理 」「死にたい」「安楽死 やり方」「安楽死 国」「仕事 死にたい」「孤独 死にたい」「ブサイク 死にたい」などの検索履歴をブラウザに量産し続けるのは許されないを通り越して最早なんらかの法を犯している気分になってくる。

 

 


突然、何もかもが心配になってくる。自分の将来が心配になってくる。足の悪いおばあちゃんのことが心配になってくる。連絡のとれない友達のことが心配になってくる。自分は一生このままなんじゃないかという気持ちになってくる。不安という暗い影が喉を締め上げてくる。胸を引き裂いてくる。胃が焼けるように痛く、夜通し床をのたうちまわった挙句、朝4時に総合病院の救急診療に転がりこんで筋肉注射を打ってもらい、スライムナイトが乗ってるやつを潰して煮詰めた成れの果てみたいな緑色のドロドロした薬を飲んでやっと眠る。

 


目が覚めてもまったく気持ちが晴れない。たとえこれから長い間生きることができたとしても、自分はこうやってひとりぼっちで死ぬのだろうか。孤独。孤独とは。ベッドの中で瀕死の芋虫のように寝返りを打ちながら、今まで言われて嫌だったことを一つ一つ思い出し、殺してやる殺してやる絶対に殺してやるという殺してやる念仏を唱えながら銃火器の画像を検索し出刃包丁の画像を検索し、それに疲れるとNetflixパタリロを延々と見続ける。少佐、私はどうすればいいのか。

 

 


もうこうなったら預金をすべて使い果たし、いつ死んでも後悔はない状態を作り出すしかない。思い立ったが吉日、そういうわけでその日のうちに40万円を口座から引き出し、10万円でiPad Proを買い、残りの30万円はよくわからない謎のセミナーに突っ込んで塵に変えてしまった。手元に残ったのはiPad Proと塵。確かなテクノロジーを詰め込んだ板とただのゴミ。まさに奇跡の錬金術。私は等価交換という法則を凌駕した。

 


それから何があったわけでもないが、次第にひとりで出歩けるまでには回復した。知人に紹介してもらった病院は自宅から1時間ほどのところにあり、最初は車で送迎してもらわないことにはどうにもならなかったが、しばらくして自分ひとりでも通えるようになった。人間の身体や心は同じ状態が永遠に継続されることはない。あがり調子のときもあれば下り坂になるときもあるが、「ひとりで出歩き、ひとりでお金を使うことができる」そのことが何よりも嬉しかった。

 

 


あれだけ孤独が怖い、ひとりぼっちが不安、このままだったらどうしようなどとハリネズミの赤ちゃんのようにビクビクしていた自分だが、実は心の奥では孤独を愛していたのではないか?ひとりで生き、ひとりで行動できるという喜びを求めていたのではないか。他人との関係などまやかしの暇つぶし。魂は己ひとつ。なんというハードボイルド。SNSで誰とでも繋がれる時代にあえて誰とも繋がらないという選択肢。究極の反骨精神に支えられた次世代を担うロックンロールの集大成。フレンチテクノの要素を取り入れつつもニューウェイブを彷彿とさせる唯一無二の世界観はまさに圧巻。椎名林檎のチケット選考には落選したが、己の中にこんなにもソウルを震撼させる音楽が眠っていたならばもう当選したも同然。勝ちである。

 

 


イヤホンから流れる心地よいリズムに乗せて全身をバイブスに委ねながら私はLOFTでひとり買い物を続けた。金を使ってやるぜ金をよお。預金を失うことを恐れぬその時の私は古代ローマが誇る英雄よりもはるかに勇敢であった。まるで春節に上海からやってきた大富豪の長男のような札束の扱い方。黄金に輝くLOFTカード。なんだろう、この失うものは何もないという無敵の感情は。四皇でも七武海でもかかってこいや。

 

 


そうしているうちに、三つほど陳列棚を隔てた向こう側によく見知った顔を見かけた。学生時代の友人である沖田(仮名)である。おいおいおいおいおい久しぶりぶりざえもんだなぁ、新しいCV神谷浩史だぜ?と手を打ち鳴らして駆け出そうとした瞬間に、私はあることに気づいて足を止めた。沖田がいるはずはないのである。思った通り、それは背格好がよく似たまったくの別人なのだった。

 

 


今までもなんとなく自分が弱っている時に、不思議と沖田によく似た人物を街中で見かけることがあった。あれ?久しぶりじゃんと話しかけそうになることが何度かあった。そしてそのたびにプチのきな粉味のことを思い出していた。

 

私は昔プチが異常に好きで、大学の生協で売っているやつをよく買っていたのだが、沖田ともよく一緒にプチを食べていた。プチというのはブルボンという会社が強力な魔力を封じ込めて発売しているお菓子であり、安価でありながらもその中毒性によって数多くの学生をダークサイドに引きずり込むことに成功、そうして作られた最強の軍団は国際情勢の均衡を崩す恐れもありロシアは警戒を強めています。というのは嘘だが、ものすごく安いしおいしいというのは本当だ。

 

 

プチのきな粉味は、私と沖田が最後に会った日に一緒に食べたお菓子である。遅刻してきた私を沖田は笑って許してくれた。きな粉味のプチは遅刻してきたお詫びに買ったのに、自分も食べたくなって半分わけてもらって一緒に食べた。とっても優しい子だった。

 

 


LOFTのバラエティー雑貨売り場のど真ん中で、「我々はもう会えないのだろうか」と考える。確かにもう会えないかもしれない。もう会えないだろう。しかし、我々はプチのきな粉味で永遠に繋がっている。永遠に繋がっている。今、この瞬間にそのことを感じることができたのではないだろうか。
私はひとりぼっちではないし、誰もひとりぼっちではない。本当は誰も孤独になんかなれないのではないか。ひとりで出歩き、ひとりで行動し、ひとりで眠っていても、誰も本当の意味でひとりぼっちにはなれないのだ。

 

 


仕事をしていなくても、家事をしていなくても、できないことが山ほどあっても、山ほどありすぎて崩れ落ちてきても、学校や職場に居場所がなくても、家族仲が悪くても、恋人がいなくても、それがなんだというのだろう。我々は繋がっている。今近くにいる人、過去に出会った人、未来に出会うはずの人、一生出会わない人、その中にあなたが繋がっている人がいるのだ。必ずいるのだ。それは目に見えない形で存在し、ある時ふと何かの形で現れるのだと思う。

 

 


どれだけ他人の悪意に晒されても、ひどいことを言われても、悲しい目にあったとしても、体力精神力を吸い取られても、生きているうちは、いやたとえ死んだって孤独の淵に追いやられるなんてことはない。本当の意味ではあり得ないのだ。だから、そんな時は色々考える前に助けを求めるか、求められないなら逃げることが先決なのだと思う。きっと絶対必ずあなたを助けてくれる人が、人の形でも人の形でなくても象徴であったとしても、必ず現れるよ。どこに?どこかに。通勤の途中に、通学の途中に、隣の家に、ツイッターに、昔の同級生の中に、マクドナルドの店内に、旅行先のきれいな景色の中に、ゲームや本の中に、ロックバンドの歌詞の中に、LOFTの陳列棚の向こう側に。

 

 


それを忘れずに、しぶとくしぶとく生きていってやろうではないか。それに私は一度落選したが、まだ諦めきれてないからな。椎名林檎のツアーチケット。